ジムノペティ第1番

イシさんが正社員として食堂に来たのは
去年の11月。
私の誕生日の数日前だった。

2010年3月、イシさんは食堂の“店長”になった。
それに伴って
「買い物店長」の出没回数が、激減した。

基本的にイシさんが休みの日以外は、来ない。

今日は、イシさんが出勤する日。
…にもかかわらず、買い物店長は
朝から食堂に居た。

イシさんはおとといの金曜日
カゼでダウンして、早退していた。
もしかしたら、まだ治らないかもしれない。

私はいつもと同じように、静かに仕事をした。
スタッフの愚痴とか世間話を聞きながら。

…イシさんは昨日、無断欠勤したらしい。
何度電話をかけても、出なかったという。

お昼の11時前、来客ピークの直前
食堂の電話が鳴った。

買い物店長はいつもと同じように
「誰かいね。この忙しいのに」と愚痴りながら
事務所に行った。

それから5分後くらいだろうか。
私が事務所に呼ばれた。
電話の先には部長。

金曜日、最後にイシさんに会ったときの状況と
ここ最近の、彼の様子を
詳細に訊かれた。

このときは、それで終わりだった。

結局、イシさんは
出勤時間になっても来なかった。

なんかモヤモヤした気分だった。

ピークの時間、出身大学の先生…ヒッシーが
奥さんと赤ちゃんを連れて、食事に来た。

この前会ったときは、まだ子どもはいなかった。

奥さんは大学院時代の先輩で
彼女とも面識がある。

少しだけ、夫妻と世間話をした。

子どもは誕生して、何ヶ月か経っている様子だったけど
口をついて出た言葉は
「おめでとうございます」だった。

日曜日は忙しい。
ヒッシー夫妻から すぐに離れて
余韻に浸る間もなく、次々仕事が回ってきた。

結局15時の退勤時間まで
ほとんど息つく暇もなかった。

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『ジムノペティ第1番』
by.サティ<Erik Alfred Leslie Satie>(1888)

退勤時間の15時過ぎ
買い物店長は、厨房の奥に
スタッフを全員集めた。

「話がある」と。
それはイシさんのこと。

私は いろいろ考えていた。

買い物店長が言ったことは
可能性として考えていた中の ひとつだった。

でも、私の想像だけに とどまってほしかった。

…イシさんが、亡くなった。

金曜日…早退したあの日
交通事故に遭ったらしい。

イシさんは、車で40分かけて
食堂まで通っていた。

「渋滞で、絶対間に合わない」だとか
「寝坊して、さっき起きた」だとか
イシさんから何度、遅刻電話の声を聞いただろうか。
そのたびに私は…。

最後にイシさんと話したのは
木曜日の夕方…駐車場で。

車から ルームミラーを外して
見せてくれた。

「2001年に撮った」と言った。

奥さんとツーショットで写ったプリクラが
そこに、いくつも貼ってあった。

今、想い出す。
…「あぁ」と思う。

初めてイシさんと話したとき
彼は、自分が結婚していると語った。
そして「墓場に行ってしまった」と言った。

「奥さん、亡くなられたんですか」とたずねると
「結婚は“人生の墓場”って言わんっけ?」と
苦笑していた。

…本当に墓場に行って、どうするんだよ。

イシさんと私は同級生。
かたや私は、未だに異性とつきあったことがない。

ディナーの男性スタッフと3人で
血液型について話しているとき
イシさんは、自分がO型であることを告げた。

その上で、私に向けたアドバイスは
「O型の人と一緒になればいいよ」

深読みしなければ
私はA型の性格だから、O型が合う という事だと思う。
…実際は私、A型じゃないんだけど。

ただあのときは
「すっげー自信家だなぁ」と思った。

イシさんと私は同級生でも
誕生日が半年違う。

それで「私のほうが若いよ」と
事あるごとに言った。

彼の時間は止まってしまった。
いずれ、私のほうが年上になる。

新しい命とともに訪れたヒッシー。
突然此処から居なくなったイシさん。

帰り道に咲く花に
誘われる蝶を、目で追ってしまう。

“蝶は魂の象徴”
何かの本に書いてあった。

食堂から帰って、いつもどおり
リコーダーの練習に行った。
…いつも以上に、高音が響くように感じる。

“レクイエム”という言葉を思い出した。

“レクイエム”が鎮めるのは、死者の魂じゃなく
生き残る者の魂なんだと
自分の笛の音を聴いて、なんとなく…感じた。